ニクソン・ショック(ドル・ショック)

Richard Nixon in 1971
1971年8月15日、リチャード・ニクソンが突然、ドルと金の交換を停止し、米国が金本位制から脱却

概観(overview)

概要

1971年8月15日のニクソン・ショック(ドル・ショック)は、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが突然、ドルと金の交換を停止し、金本位制から脱却することを宣言した出来事です。
これにより、国際的な通貨体制が大きく変化し、ドルの価値が急激に変動しました。

背景

ニクソン・ショックの背景には、アメリカがベトナム戦争や社会福祉政策などで巨額の支出を行っていたことがありました。
これによりアメリカ経済は財政赤字とインフレに見舞われ、金融圧力が高まりました。他国もアメリカの経済状況を警戒し、ドルの兌換を求める動きが強まりました。

行動

ニクソンはこの状況を打破するため、金本位制の中でドルの価値を切り下げる決定を下しました。
これにより、他国はドルを保有していても金との兌換ができなくなり、事実上ドルの信用が減少しました。
また、ドルの価値低下は他国の通貨の価値上昇を招き、国際的な通貨格差が生まれました。

影響

ニクソン・ショックは国際的な通貨体制を大きく変え、ブレトン・ウッズ体制(金本位制)の崩壊を象徴する出来事となりました。
これにより為替相場は変動相場制へ移行し、各国の通貨間の相対価値が市場で決定されるようになりました。
この変化は国際経済に大きな影響を与え、通貨の安定性や経済の調整に関する新たな課題を生み出しました。

チャート

経緯

日付 内容
1944年7月 第二次世界大戦中の1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州、ブレトン=ウッズで、連合国44ヵ国の通貨担当者が集まり、「アメリカのドルを基軸とした固定為替相場制」いわゆるブレトン=ウッズ協定が締結され、金兌換によって裏うちされたアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって貿易を発展させ、経済を安定させる仕組みを構築。 この体制はその後1973年まで続き、戦後の世界経済の復興を支えた。ブレトン=ウッズ体制においては金1オンス=35ドルが公定価格とされ、ドルはいつでも金と交換でき、各国通貨はそれぞれ定められた平価(たとえば日本では1ドル=360円)の上下1%以内で為替相場を維持することが義務づけられた。
1945年 国際通貨基金(IMF)協定と国際復興開発銀行(IBRD)協定(通称が世界銀行)が制定
1965年~1971年 アメリカ経済は、冷戦による軍事費の増大、とりわけベトナム戦争の戦費が大きな負担となり、アメリカが金に裏打ちされたドルによって世界経済を支えることは不可能になった。
1971年8月15日 ニクソン大統領の発表した、ドルの金との交換停止によって、ドルの価値が急落し、ドルを基軸とする国際通貨制度(ブレトン=ウッズ体制)が崩壊した。 この結果ドル切下げが行われ、これをドル危機、あるいはニクソン=ショックという。
1971年12月18日 ワシントンのスミソニアン博物館で主要国蔵相会議を開き、ドル切下げを決定、1ドル=360円から308円とされた(スミソニアン協定)
1973年2月14日 再度のドル切り下げで日本円の固定相場制は崩壊し、変動相場制へ移行
1985年9月22日 アメリカ経済が行き詰まる中、レーガン政権は、先進国蔵相・中央銀行総裁会議を招集してプラザ合意に漕ぎ着け、一気に1ドル=240円台でを1ドル=200円にドル安・円高で協調した。 変動相場制の中でも、経済大国による協調がなされるという状況となったが、円高はさらに続き、1988年には1ドル=120円台となり、急激な円高は日本の円高不況をもたらした。

参考サイト

参考動画

関連書籍

当時の日本経済にとっての「ニクソン・ショック」は、金融システムの大問題というよりも、輸出が減少するのではないかという、いっそう現実的で差し迫った実体経済の問題だったわけです。
12大事件でよむ現代金融入門 倉都 康行 (著) p.4 第1章ニクソン・ショックの衝撃
「日本人はジョンソン、ニクソンの両大統領がアメリカはドルの切り下げはしないと繰り返し約束した時に、ナイーブにもそれを信じた」
ブレトンウッズ体制の終焉: キャンプ・デービッドの3日間 p.262終幕第15章波紋
通貨当局が二週間も市場を閉めることが出来なかったのは、実は東京銀行を救済するためではなかったのか、
霞が関が震えた日―1971年 ニクソン・ショック 通貨戦争の12日間 p.171戦場
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